「オンリーワン」の伝道師 丸山浩路さん


カウンセラーとして心理セラピストとして、初のプロの手話通訳者として、戦後の福祉界に新風を起こした丸山浩路さん。そのエネルギーは止まることを知らず、福祉のフィールドを飛び出し「ステージパフォーマー」として全国を駆けめぐる日々。「オンリーワン」の生き方を説き続けて今や講演リピート率全国ナンバーワン。


丸山講演との遭遇


 私はその日は朝からなぜか憂鬱だった。ナンデダロウ?……ソウダ、今日ハ、講演会ノアル日ダッタ。500人からの生徒を体育館に集めて、ナニガシの講演を聞かせなくてはならない。1時間以上も生徒の集中力と忍耐力をもたせなくては。イヤハヤ、神経がくたくたに疲れてしまう。……むかし学校の教師だった私は、講演会のある日は朝から内心気が重いのだった。
 ところが、その日の講演はわけが違った。演台のない舞台にさっそうと現れた人はモミアゲも鮮やかに、袖のふわっとふくらんだ真っ白なスタンドカラーのシャツに黒いズボンの「ステージ衣装」でキメている。いつもとは明らかに違う感じの講演者。
 オヤ、と注がれた皆の視線を、その人はのっけから体育館中にとどろく太い声とやたら大袈裟な身振り手振りで一気に束ね、ぎゅっと手中に捕らえて90分、思うがままに講演を、いや、パフォーマンスを繰り広げた。力強く叫び、優雅な手話をつけながら朗々と歌い、眉をつり上げこちらを睨み、腕を振り上げ肩をそびやかし大きくうなずき、あるいはうなだれ首を振り……はじめは口をポカンと開けてあっけにとられていた生徒も教師もいつの間にか舞台に引き込まれ、笑ったりほろりとしたりしながらあっという間にときが過ぎ、気がつけば舞台はクライマックス。ステージパフォーマー丸山浩路は、映画「サタデーナイトフィーバー」のジョン・トラボルタみたいに脚を大きく広げて右膝をちょっと曲げ、右腕を掲げ人差し指を天に突き立て、トドメのセリフを高らかに叫んだ。
「ナンバーワンよりオンリーワン!!」――
 終わったとたんにわっと拍手。体育館にさわやかな感動が広がった。


ビジュアルウルウル系講演


 「私が講演をするとき、いつも念頭に置いていることは、目の前の空気に爪を立てること。つまり、どうやって会場の空気を動かし、観客との心理的な距離を縮めるかということです」
 40代で「ステージパフォーマー」に転身した丸山さんは、以来今日まで20年間、講演とショーを合体させたような独特の丸山流講演スタイルを築いてきた。くっきりとしてよく動く眉に「携帯電話のような」モミアゲ、体全体からあふれでる派手なボディーランゲージ、強弱や緩急自在の語り口。普通なら照れくさくて口にできないような「クサい」せりふを臆面もなく次々と吐き、観る者を圧倒する「濃いキャラ」。心に響くエピソードやキーワードをちりばめながら人を元気づけ感動を与える90分ぶっ通しのステージ。丸山流はビジュアル文化にどっぷり漬かった観客の心をつかむことに、みごと成功している。
 「言葉は聞かせるものではなく、見せるもの」そう言い続けている丸山さんは、身体表現というものに徹底してこだわってきた。ビジュアル時代に先行するかのように、なぜ早くから「表現」にこだわり、どうやってオリジナルな「表現力」をものにしたのか。
 その原点は手話との出会いにあり、手ほどきをしてくれたろうあ者で新潟県東頚城郡小黒村(現安塚町)の村長を務めていた横尾義智さんとの出会いにあった。それは当時まだ9歳だった丸山さんの将来を左右する、運命の出会いでもあった。


手話の洗礼



 今を遡ること50年。戦後間もない新潟の小さな村を走る信越線の蒸気機関車。いつもは静かな車内で、ある日小さな事件が起こった。ろうあの青年が無賃乗車で捕まったのだ。青年は車掌に引きずられながら必死に身振りで何かを訴え、ちょうど丸山さんの向かい側に座っていた紳士にすがりついて、助けを求めるように激しく手を動かした。すると、それまで事件に少しの関心も示さずうつむいて読書をしていた紳士は静かに立ち上がり、すばやく手帳に何か書きつけ名刺をそえて車掌に渡した。
 「ヨコオ、さん?……あっ、村長さんの横尾さんらけ」車掌はあわてて帽子をとり、一礼。手帳には青年が切符をなくして困っているとしたためてあり、一件落着。
事件の鮮やかな解決ぶりに目を丸くしていた丸山さんに横尾さんはほほえみかけ、手帳に書き込んで差し出した。
 「あなたとはよくお目にかかりますね。これからお友達になりましょう」
 しばしば乗り合わせる偶然が重なり、丸山さんが淡いあこがれを抱くようになっていた気品ある紳士が、ろうあの村長であることを、そのとき初めて知った。駅前の小さな食堂で中年紳士と向かい合って手話の練習をする男の子の姿が、月に何度か見られるようになったのはそれからである。
人間とは。命とは。人生とは。――多感で聡明な男の子は、横尾さんとの親交に深い示唆を得ながら高校生となり、やがて東京の大学へ進学するまでになった。
 上京後は横尾さんのアドバイスに従って耳の聞こえない人たちの趣味のサークルに飛び込み、やり方も何も知らないまま手話通訳に挑む。手振りだけでは足りないから、身振りも表情も総動員して夢中で伝えた。
 意思の伝達は、身振りや表情を豊かにして視覚に訴えながらするもの――幼いころから手話と親しんできた丸山さんには、いつの間にかそれが染みこんでいた。


プロ手話通訳者の道程


 人の一生は、だれでも1冊分の本になるという。丸山さんは半生だけでも1冊では足りないだろう。「丸山浩路物語」は上下巻かはたまた上中下巻か。
 私はこの取材で、いきなり例の「日本初のプロ手話通訳者宣言」について質問してしまった。でもそれは「丸山浩路物語」の上巻の198ページあたり。しかも人生は1話完結ドラマの積み重ねではないのだから、それだけ切り離して語るわけにいかないのは当然だった。
 大学院在学中から丸山さんは心理セラピストとして、またカウンセラーとして活動していた。医師や弁護士、ソーシャルワーカーなどをスタッフにそろえ、トータルに相談を引き受ける「ベルトコンベアー式の有料カウンセリングルーム」という画期的なシステムの相談機関を開設したのは、1963年、24歳のとき。「人の悩みで儲けるとはナニゴトか」と非難されながらも信念を曲げずに続けてきた。神奈川県の相談機関や赤十字関係機関などからカウンセリングの委嘱をされるようにもなっていた。より優れたカウンセラーになるために、手話の勉強も怠らなかった。表情や動作からその人の心理を読み取る力を高めるには、手話はたいへん役立つからである。手話通訳は、本業の傍らでやっていた。
 「それでね、ノリコちゃん、いよいよプロ宣言の話になるんです」――丸山さんは常々疑問に思っていることがあった。手話通訳をすると、物陰に呼ばれて謝礼を渡されるのはなぜなのか。当時、手話通訳は「奉仕」だった。それなのにお金をくれるということは、これはもう立派な「プロ」ではないか。ならばお金のやりとりは堂々とすべきではないか。そもそも今必要なのは、政治的宗教的にも信条的にも中立の立場で、耳の聞こえない人と聞こえる人との橋渡しをする通訳者ではないのか。
 「そのためにはシビアな責任感と能力をもつプロの手話通訳者が必要だと気づき、1966年、27歳でプロ宣言をしたのです」
 それが受難の始まりだった。「ろうあ者を食い物にする気か」「がめつい奴」――容赦ない雑言が飛んでくる。身の危険にもさらされた。日比谷公会堂で通訳の仕事を終えて外へ出ると、いきなり3人の男に公園の陰に引きずり込まれ、レンガで手を砕かれそうになった。「手話をできなくしてやる!」「ろうあ者とともに闘っていくのが通訳者だろうが!」……ろうあ運動の必要性は丸山さんもおおいに認めていた。しかし、手話通訳が職業として確立されることが、ろうあ者の自立につながるという信念は変わらなかった。
 「バッシングが始まったのが、手話の世界にどっぷり足をつっこむプロローグだったのです。それならプロに徹して社会的な地位を築いてやろう。そうすれば"丸山サン手話通訳者であれだけのステータスが立ったゼ、ならばあたしもなりたいワ、オレもなりたいヨ"と、相応の実力と責任感を持った若い人たちがこの世界へ飛び込んでくるだろう。だからもっともっとシビアになってやろうじゃないかと腹を決めたのです」
 手話通訳の際に必ず料金の交渉をする。公的機関などに手話通訳の予算をつけるよう働きかける。……長い年月がかかったが、社会はほんの少しずつ変わり始めた。行政機関や裁判所などに手話通訳の予算が計上されるようになった。さらに1988年、旧厚生省公認の第1回手話通訳士試験が行われた。プロ宣言から22年後のライセンス制度の確立となった。2001年までの平均合格率は14・7%である。


チャレンジスピリッツ


 「『みらい』の読者のみなさんに、ぜひお話したいことがあります」――私はプレゼントの包みでも解くような気分で次に出てくる丸山さんの言葉を待った。
 「一つは"夢は見るもの、希望はかなえるもの"ということです。お母さんやお父さんは、お子さんに"チャレンジしたなら最後までやりなさい"と言っていませんか? でも、それは違うのです。やりたいこととやり遂げられることとは別。チャレンジしたことすべてに花を咲かせられるほど私たちは天才じゃない。だからチャレンジしたことが本当に自分に向いていたら"次はこうなりたい"と夢イラスト描こうよ、夢風船飛ばそ。途中で自分にはできないなと思ったら、夢風船をパチンと割ればいい。そして次のチャレンジに移ろう。"これなら続けられるかもしれない"と思うものをみつけたら、それには"希望"と名づけよう」
 「もう一つは"ナンバーワンよりオンリーワン"という考え方です。"私はたくさんのことはできないけれど、これだけは自信がある"といえるものを持とう。"ナンバーワン"は人が評価するもの。"オンリーワン"は自分が評価するもの。人に最も誇れるものをゲットするために、いろんなことにチャレンジしようよ。そして"希望"をかなえよう。かなえたものをさらに磨いて磨いて磨いていけば、それは必ず"オンリーワン"になる」


43歳の再生


 卓越した心理セラピストやカウンセラーになる夢、プロの手話通訳のナンバーワンになる夢。丸山さんは次々とチャレンジし、「夢イラスト」を描いては努力を尽くしてきた。常人にはとても耐えられそうにない苦難に遭っても、揺るぎない信念と精神力でくぐり抜けてきた。
 夢はすべてかなえられたかに見えた。しかし、それは本当なのか。そもそも、これらの夢は自分にとって真の「希望」だったのか。――それを立ち止まって自らに深く問うてみるときが、40代に入った丸山さんに訪れた。
 そのころ、カウンセリングルームに耳の聞こえない男の子が通ってきていた。初めて顔を会わせてから1年半が経とうとしていたころで、男の子は丸山さんにすっかり心を許すようになっていた。その男の子に突然の不幸が襲った。火事で両親と姉を失ってしまったのである。自らも負傷して入院している彼に、家族の死を伝えられるのは丸山さんしかいない。けれども、どうしてもそれができなかった。一夜にして天涯孤独となった過酷な現実を男の子に宣告することは、丸山さんにはできなかった。「それでもカウンセラーですか。あなたにその資格はありません!」医師に責められても、丸山さんの口は動かず、腕は地面に向かって虚しく垂れたままだった。
 ときを同じくして、丸山さんはもう一つ大きな悲しみに見舞われた。兄弟同然に育ってきた従兄弟が35歳で急逝してしまったのである。
 二つの不幸が、福祉の第一線で活躍する丸山さんの足元を激しく揺さぶった。人はいつも死と隣り合わせ。心の奥で声がする。「お前はいつ死んでも悔いのない生き方をしているか」「本当にやりたいことをやっているか」――やってきたはずである、「ナンバーワン」になるための挑戦をいうならば。「それは果たせたのか」――果たせたし、果たせない。なぜなら、「ナンバーワン」は必ず覆されるものだから。「男の子に真実を告げることができていないではないか」――それができるのがカウンセラーだというのなら、……私はカウンセラーにふさわしくない。
 自分にしかできない生き方をしたい。「ナンバーワン」より「オンリーワン」になろう。それが真の「希望」。
 丸山さんは43歳にして、心理セラピスト、カウンセラー、手話通訳者、すべての職から退いた。カウンセリングルームも閉じた。


出会いを残すために


 自分にとっての「オンリーワン」の生き方。それは「出会いを残すこと」だと丸山さんは思い至った。これまでの人生を、出会った人たちのことを、教えられたことを、感じたことを、たくさんの人に話そう。そのなかのたった一人でもいい、「あなたに出会えてよかった。勇気が出た」と言ってくれる人がいれば、それが自分の生きた証になる。
 丸山さんは再び人生の白地図を広げた。今日から「ステージパフォーマー」として、ここに新たな色を塗っていくのだと。
 「海の波の形がすべて違うように、人間も一人ひとり違っていていいんだよ」――日本海を指さしながら横尾さんが教えてくれた言葉だけは、たとえ何度地図を塗り直そうとも、変わることなくそこに刻まれている。
 「今の自分の波の形を受け入れて、そこからなりたい波の形をめざして変身しよう。それが"オンリーワン"へ通じる道だと、60歳を超えた今、私は自信をもっていえます」
 「オンリーワン」を極めた人は瑞々しかった。ゆったりとしていた。ひたむきだった。丸山さんは、今日も「出会い」を残した。私の心のなかに。


                                   インタビュアー 鈴木 典子

                                     季刊「みらい」より転載